「さよならだけが人生だ」という言葉がとても好きだ。
これは、『山椒魚』で知られる井伏鱒二の言葉である。太宰治の師匠としても有名な作家だ。
彼の作品はほとんど読んだことがないが、兎にも角にも、井伏鱒二はこの言葉を持って、人類にある解を打ち出したのである。
それについて、詳しくは後述することにする。…とても重要なことを書いたつもりだけど、急いでいる人は、読まなくても良いかも。
Contents
旅が好きだ
私は旅が好きだ。
学生時代から気の向くままに行きたい場所へ行き、現地での出会いを楽しんできた。
旅の何が好きかって、基本的に、そこには「さよなら」しか存在しないところだ。
旅先に居付くことがない私にとって、旅での出会いはいつだってさよならの予感をはらんだものに違いなかった。
そして実際、旅の仲間と再会することはほぼなかった。
それがとても心地良いのである。
旅で出会った気の合う友と過ごしているとき、常に「もうこの先会うことはないのかもしれない」と考える。
そう思うと、彼・彼女らとの時間をとても大切にできたし、「一瞬」や「永遠」の意味を知ることができた。その2つにさして違いがないことも。
寂しいから好きだ
旅で出会う身軽な人びとが好きだった。彼らはどこか寂しそうで、鏡みたいだと思った。きっと、私もそう見えている。
いつだって、さよならが寂しいのだ。
寂しくて仕方がないから、恋しいのだ。
人間の感情で「寂しい」以上にエモーショナルなものがあるだろうか。
私にとって「寂しい」は、私そのもののような感情だ。
人間の身体の半分は水分でできているらしいが、私のなかの水分の正体はおそらく、寂しくて流した涙の集積に違いない。
「寂しい」は私の原動力だ。
「寂しい」から旅をする。
「寂しい」から夢を見る。
「寂しい」から、生きる。
人類に「寂しい」という感情が備わっていなかったら、きっと『失われた時を求めて』は生まれていない。
アルコールや煙草はともかく、黒電話は存在しなかっただろうし、カモミールティも、茶便箋も。
…そしてきっと、今ごろペンギンは絶滅している。
東京が好きだ
私は東京が好きだ。
東京の端には実家もあるし、都心で数年一人暮らしをしていた。
東京に住むということは、旅をすることと同義だと思う。
東京は、まさにさよならしか存在しない街だ。
東京では、すぐ人がいなくなる。店が潰れる。愛が失われる。
掴んだように思えたそれは常に流動し、とどまることを知らない。砂時計のように、さらさらと手中から溢れていく。
東京は、そういうところだ。
だから好きなんだろう、あなたも。
東京にいると、常に旅をしているような気分になるのは、つまりそういうわけである。
さよならだけが人生だ
「さよならだけが人生」とは、どういうことか。
つまり、「こんにちはだけが人生」ということである。
人は旅をして、人に出会う。
それはいつだって、別れの予感をはらんだものである。
「こんにちは、また明日、さよなら。」
これを繰り返すことが、無力な私たちに唯一できることだ。
さあ、旅に出よう。
まだ見ぬ大切なあの人と、さよならをするために。
<書いた人>
miki/ワーケーションライター。東京(の端)と地方を行き来する2拠点生活。無類のカフェ好き。お問い合わせはこちら→mikiworkation@gmail.com